天狗山八十八ヶ所

  • 2020.05.31 Sunday
  • 11:28

 

 

 

 

小樽は不思議な町である。
ずっと住んでいるのに知らなくて、行ったことのない場所がある。
そこにあるのが当たり前すぎて、よく知らないことがある。

 

どなたとどんな話をしていてそこへたどり着いたのかは、すっかり忘れてしまったけれど、

あるときなぜか四国八十八ヵ所の話になった。

 

ご存知、弘法大師空海ゆかりの札所寺院、八十八ヵ所を巡拝するあのお遍路さんの話である。

 

「行ってみたぁい、でもねぇ遠いねー」
「んー四国だからねぇ。ほれ、したから小樽にもあるっしょ」
「えっ?」

 

頭の中が?マークでいっぱいになった。
小樽にもある?
知らなかった。ずっと住んでいるのに。
天狗山の登山道のところにかなり昔からあるという。


あると言われてもそれだけではなんだかよくわからなかったが、
その日から頭の中は八十八。
行ってみたいな八十八。
四国じゃなくて天狗山。
行ってみたい見てみたい。

 

それから約一年のときを経て、ある日とうとう天狗山に上った。

 

登山道の入り口から広がるアリスワンダーランドのような世界。


「うわぁワクワクする!」

「したけどここであってるのかい?」

「わっ虫」

「ヤダ」

「でもちょっと楽しい!」

 

頭の中は吹き出し付きのひとりごとでいっぱい。

 

「うっまた虫」

 

ブツブツ思いながらも足は元気に前へ進んだ。

 

突然、目の前に現れたカラーの大師様。

並んだお地蔵さん。


誰がいつどんな思いで立てたのか、言葉を失った。

 

小樽天狗山四国八十八ヵ所霊場。


番号つきのお地蔵さんは途切れながらも登山道沿いに並んでいた。

 

それにしても何故ここ小樽に四国があるのだろう?


北海道を開拓するため海を渡っていらした私たちのご先祖さまが、遥か遠くの郷里を思い祈り運んだのだろうか。

 

・・・五十八、五十九・・・六十何番目かでスキー場に出てびっくりした。

続きはコースを越えた上にあると思われたがこの日はそこから引き返した。

 

知らなかった昔の小樽。


山の麓で青い空を仰ぎ、思わず手を合わせた。

 

 

 

(投稿日: 2013年10月28日)

 

 

 

 

 

 

※ このエッセイは、国立大学法人小樽商科大学の社会貢献・地域連携事業の一つ「ソーシャルメディアを使った観光振興」に関する実証的研究事業として、2013年4月に発足した「おたるくらしプロジェクト」のコミュニティサイト「おたるくらし」に掲載された文章です。

 

 

ここかしこが慕わしいまち

おたるくらし

http://otaru-class.com/

 

本当の小樽を伝えたい。と、地元生活者の目から見た情報を発信。「ガイドには載っていない隠れ家カフェ」や「小樽運河の魔法」「海を走る列車」などなど、街並や歴史、美味しいものや風景を紹介する記事が満載です。


 

おたるくらし・マップ

http://otaru-class.com/map/

 

このマップがまた可愛いいです。

興味のある記事を読んだら、ぜひマップで検索をして、出来ることならその場所へ足を運んでみてください。

おたるの暮らしのあたたかさを感じていただけることと思います。

 

 

 

記憶の中の雪景色

  • 2020.02.11 Tuesday
  • 12:23

 

 

もうこのまま春が来ると思い込んでいたら、節分過ぎて大雪。

 

あまりの雪の少なさに夏の水不足や農作物への影響を心配しはじめていたけど一安心。

にしても一気にこんなに降るなんて。気温も上がったり下がり過ぎたり、昔の冬とはなんだか違う。

 

 

 

今はなき源町の山の上に暮らしていた頃。

 

源町は現在、清水町の一部、中野植物園の辺りで、今も通っている梅源線というバス路線の名称の、梅は梅が枝町、源は源町から来ている。その梅源線のバスに乗って5歳の私は幼稚園に通っていた。


その頃の夢はバスガイドのお姉さんになること。紺の制服と帽子、白い手袋、首から下げた切符入れのかばん。憧れた。毎日、バスに乗るのが楽しみで。

 

 

が、しかし、雪が降るとバスは坂を登れなくなり、 梅源線は冬期間運行停止となる。私は幼稚園に通えなくなり、あえなく中退。いつのまにかバスガイドの夢も忘れ、気がつけば市内の路線バスからバスガイドのお姉さんは消え去っていた。


 

 

 

細い小路の奥の小さな家に住んでいた頃。

 

家にはミミコという名の猫がいた。源町に住んでた頃から飼ってた猫で、私は猫と一緒に育った。冬の話ではないが、外で遊んで帰って来ると「またこんなに汚してきてー、どれ足っ」と、猫と並んでホースの水で足を洗われた。なぜかそんなことを覚えている。

朝となく昼となく夜となく、いつも「カオリちゃん、おはよ」と言う九官鳥もいた。向かいの家にはタロという名の犬がいて、時々鎖を外していなくなった。「タロー、タロー」って、向かいのオバさんいつも大きな声で叫んでた。

 

昔の冬は長かった。

 

屋根から落ちた雪としんしんと降り積もった行き場のない雪が窓を塞ぎ、玄関の前には何段もの雪の階段ができた。タローの小屋も雪に埋もれる。

家の中は朝からうす暗くて、気も滅入る。滅入った気分を上げるのは今も昔も美容室。


この頃夢はパーマ屋さん。母に連れられていく美容室は大人の女の世界だった。が、くるくるのふわふわの長い髪にしてほしかったのに、いつもワカメちゃんのように刈り上げにされて悲しかった。願いは叶わずパーマ屋さんの夢もしぼんだ。

 


 

 

 

 

数十年の時を経て、坂はどこもロードヒーティングとなり、梅源線は止まることなく冬も坂を登っている。

 

除雪、排雪、真夜中に働いてくださる方達のおかげで、雪が窓を塞ぐことも少なくなった。





 

昔より春の訪れも近くなって来たのだろうか。

 

未だ見ている夢にも春は訪れるのだろうか。

 



 

季節外れの雨が降っている。



静屋通りと都通りと

  • 2019.12.17 Tuesday
  • 01:24

 

 「あんなさん、あんなさんは都通り、うちは静屋通り、堺町なんて関係ないって思うべ、な。でも、違うんだ。堺町に観光客が来なくなったら小樽みんな、俺たちんとこもダメになるんだ! わかるべ。したから俺たちは自分たちの商売だけでなくて・・・」

 

 

 

 あれはもう何年前だろう、小樽駅前商店街都通りにご縁をいただき小さな珈琲ショップを営んでいた私のところに、突然、小樽市観光振興室の課長さんだったか部長さんだったかが、思いも寄らないお話を持っていらした。なんでも今度、市民で作る観光推進会議とやらのメンバーになってくれませんかというお話だった。

 

 「はぁ、私でお役に立てることがあるのでしたら」

 

行ってびっくり見てびっくり。

呼ばれた先は市長応接室。

自分以外は全員すんごい社長さんばかり。

 

なんで私がここにいるんだ?

 

 

 

 

 

『小樽観光プロジェクト推進会議』そこの委員長が藪半の社長さんだった。

 

クラシックが流れてる石蔵のハイカラなお蕎麦屋さん。

言わずと知れた観光カリスマである。

 

 三年の任期を二期、ご一緒させていただくご縁をいただいた。

 

 小樽の歴史や観光のことなど、右も左もわからぬくせに、好き勝手なことばかり言う私に、

「あんなさんはそれでいんだ、好きなこと言わないばあんなさんでないべ」と言ってくださり、またあるときは「俺たちはな、社長はすぐ集めれんだ、したけど市民を巻き込むのは難しい、あんなさんのやってるような草の根の活動が大事なんだ」と仰ってくださり応援してくださった。

 

 

社長が愛した小樽運河。

 

 

 当時、内地の業者ばっかりだと思われていた堺町を調査し、実は半数以上が市内の業者と判明、商店主に呼びかけ、商店街振興組合ができた。お隣同士挨拶もしたことがなかったという観光客に人気の通りは、市民にも親しまれ、今も続く「ゆかた風鈴まつり」などのイベントが開催されるようにまでなったのである。

 

 小川原委員長はじめ、会議のメンバーの社長さんたちが、人知れず雪あかりの路の堺町会場を仕掛け、自らスコップを持ち、暗い中オブジェを作り、「ろうそく消えたらどうすんのよ」「参加してくれない店の前とかそこだけ暗いべやなー」「俺が点けて歩けばいんだべ」笑いながらしたこういう実践行動がきっかけとなり、人を、街を動かしたのだ。

 

「・・・したから俺たちは自分たちの商売だけでなくて、よその商店街まで行ってな、こうやってな、あんなさん」

 

 

 

どれだけ小樽が好きだったのか。

 

 

 

 

「そういえばこの頃、Facebookでもお見かけしないけど藪半の社長元気かなー?」

「んー糖尿だって言ってたからなー店にもあんまし出てないらしいよ」

 

つい数日前に誰かとこんな話をしたばかり。

 

 

 

 

それがまさか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ご家族に残された最後の言葉は「頼む」だったと新聞記事で読んだ。

実にたくさんの方がSNSに深い絆と思い出を綴っていらした。

ご縁のあったたくさんの方にも残してくださった言葉のような気がするのは私だけではないだろう。

 

 

Facebookに投稿してた天ぷら蕎麦の写真(2012年4月)

 

 

 

 

 


 

もう一人の蕎麦屋親父の独り言

http://sobaya-oyaji.jugem.jp/?eid=234

 

http://sobaya-oyaji.jugem.jp/?eid=78


小樽観光プロジェクト推進会議発足の記事・小樽ジャーナルさん

https://www.otaru-journal.com/2007/08/post_1878/

 

小樽・蕎麦屋・藪半 物語

http://www.yabuhan.co.jp/yabuhan_2011/wp-content/031_00_yab_story_2010.html

 

 

 

 

 

心よりお悔やみ申し上げます。

合掌

おたるくらし・可愛いマップ付!!

  • 2019.11.30 Saturday
  • 08:46

 

時々ここに戻される。

 

小樽で暮らした歳月に、したかったこと、できたこと。

うまくいかなかったこと、できなかったこと。

またやりたいと思うこと、チャレンジしようと立ち上がること。

 

 

「おたるくらし」というサイトにエッセイ書いてみませんか? 

と、有り難いお声をかけていただいて、数年前にここで受けた衝撃を書いた。

 

小樽で頑張る多くの人の原点が、知ると知らざるとにかかわらず、

ここにあるよなそんな気がする。

 

忘れるところだった。

 

 


**********


 『小さな案内板』

 

 

何度も目にしていたはずなのに、その日はじめて気がついた。
築港駅の横にひっそりと建っている小さな案内板。


「小林多喜二 住居跡」


こんなところにいつからあったのだろうか。

小林多喜二と言えば、小学校の遠足か何かで旭展望台に行ったときに見た文学碑のあのおっかない顔のせいで、恐いというイメージしかなく、地主さんの話も蟹の話も知らないふりして避けて来た。

 

まるで誰かに呼び止められたような気がして、向き合い、覚悟を決めて案内板の文章を読んだ。

 

「明治末期、秋田から移住した小林多喜二の一家は、鉄道線路を背に、小さなパン屋を営んでいた。当時、家の裏手は築港の工事現場で、タコと呼ばれた土工夫が過酷な労働にあえぎ、非人間的なタコ部屋に・・・・・」(案内板より引用)

 

目の前には巨大な商業施設と観覧車が見える。

 

その昔、そこがなんだったのか、
知らなかったこと、知ろうともしなかったこと。

しばらくその案内板の前から動くことが出来なかった。

ここで彼は何を見つめ、何を伝えたかったのか。
いったいどんな人だったのか。

 

その年、雪融けを待って、何十年ぶりに旭展望台に上った。文学碑のあのおっかない顔は小林多喜二ではなくて「働く人のたくましい顔」だった。思い込みだったのである。働く人々の幸福を願っていた文学者だったと。

 

小さな案内板が過去と未来を結ぶ。

 

そこは明治の日本の繁栄を支えた鉄道であり、港である。
それは小樽の今に繋がり、明日へと続く。

 

名を残すこともない多くの人の力がそこにあったことを忘れてはいけない気がした。

 

(香)

2014年  4月13日 

 

 

 

 

※ このエッセイは、国立大学法人小樽商科大学の社会貢献・地域連携事業の一つ「ソーシャルメディアを使った観光振興」に関する実証的研究事業として、2013年4月に発足した「おたるくらしプロジェクト」のコミュニティサイト「おたるくらし」に掲載された文章です。(2019年 現在、観覧車はありません)

 

 

 

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本当の小樽を伝えたい。と、地元生活者の目から見た情報を発信。「ガイドには載っていない隠れ家カフェ」や「小樽運河の魔法」「海を走る列車」などなど、街並や歴史、美味しいものや風景を紹介する記事が満載です。


 

おたるくらし・マップ

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このマップがまた可愛いいです。

興味のある記事を読んだら、ぜひマップで検索をして、出来ることならその場所へ足を運んでみてください。

おたるの暮らしのあたたかさを感じていただけることと思います。

 

港とStation

  • 2017.11.14 Tuesday
  • 22:12

 

 舞台は雪の降りしきる銭函駅。走り出した汽車のデッキで、今にも泣き崩れそうになるのを必死に堪え、笑顔を作って敬礼している直子。ホームには別れることになった夫、英次が立っていた。1981年(昭和56年)に公開された映画「駅−Station」のワンシーン。いしだあゆみさんと健さんである。

 1980年(昭和55年)に放送されたNHKの大河ドラマ「獅子の時代」では、小樽港から樺戸監獄へ送られる囚人の列の中に無実の罪で捕われた元会津藩士の銑次(せんじ)がいた。演じていたのは若き日の文太さんである。

 

 義理と人情を秤にかけて、男らしさを貫いた昭和の大スターふたり。
 

 「駅−Station」は雄冬や増毛が主な舞台で、小樽のシーンはここだけだったけれど、それはそれは切ない別れのシーンで、走り去る汽車を見送りうつむきかげんに手袋をはく、健さんの姿が目の奥に残っている。


 JR札樽間の海岸線を走る電車が好きだ。いや、正しくは国鉄時代、札幌行きの汽車の窓から見えた海。進行方向をわざと背にして座り、ガタンゴトンと遠ざかる風景を見送る。あの景色が好きだった。

 

 大河ドラマとしてはめずらしく、架空の人物が主人公だったという「獅子の時代」は、薩摩の郷士と会津の下級武士が幕末から明治維新を生き抜く様が描かれており、実在の人物として小樽ゆかりの榎本武揚も登場する。そして北海道開拓時代の話も。


 吉村昭の小説「赤い人」を読んだことがある。それまで商都小樽繁栄の象徴だと思っていた港に、入ってくる船もいろいろだったのだと知り衝撃を受けた。大河ドラマに出てくる文太さんが演じたような囚人たちが、行き先も知らされないまま乗せられたという船だ。

 

 樺戸から道を開いて網走へ、その名も番外地へと続く。肩で風切る勢いの昭和。男として、人としてどう生きるか。演じ続けて時は流れ、平成も四半世紀。今生での役を全うし、次はあの世からの出番があるのかもしれない。そう思いたい。

 

 11月、ひとつの時代の終わりを告げるように天に召された健さんと文太さん。ふたりが小樽に残してくれた足跡は、その映像とともに深く心に残っている。

 

2014/12/22記

写真:まがら りか

 

 

※ このエッセイは、国立大学法人小樽商科大学の社会貢献・地域連携事業の一つ「ソーシャルメディアを使った観光振興」に関する実証的研究事業として、2013年4月に発足した「おたるくら しプロジェクト」のコミュニティサイト「おたるくらし」に掲載された文章です。

 

おたるくらし

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